【五月女寛さん】長野県の伊那谷での創作と暮らし|つくり手インタビュー

東京から長野県の伊那谷へ移住し、古民家で暮らしている五月女寛さん。

派手ではなくどこかほっとするような佇まいの五月女さんの作品たちが、どんな思いでどのような場所でどのように作られているのか伺いました。

>> 五月女寛さんの作品はこちらからご覧いただけます。

幼少期から自然と近くにあったものづくり


— 五月女さんの生い立ちというか、作家さんになるまでの経緯やきっかけのようなものから伺ってもよろしいですか?

ものづくりは小さい頃からすきで。

おじいちゃんも一緒に暮らしていたんですよ。おじいちゃんがすごい、物をなんでも作っちゃうおじいちゃんだったので、いつも近くにいて、なんか大工道具の使い方とか見よう見まねで覚えて、いつも隣でなんか作ってたね。

だから小さいときから自分のおもちゃとか全部自分で作ったり。

例えば竹鉄砲、パチンコ、弓矢、竹トンボ、椅子とかニワトリ小屋、犬小屋…ぜんぶ自分で作ってて、自然にそういうのはおじいちゃんから学んだ感じがするかな。

— じゃあ本当に小さい頃からものづくりには触れていたのですね。

そう。ちなみにうちの親父もすごい器用な人間でなんでも作るし、うちのお袋は絵が好きで描いていて。

だから絵もすごい好きで、よく描いてたな。

— ではものづくりや絵を描くことは子供の頃からずっと続けられていたと?

実はスポーツも大好きだったから、中学高校では超体育会系で、スポーツ命みたいな感じだったんだけど。(笑)

— すごい!文武両道だったんですね。ちなみにスポーツは何をされていたのですか?

小学校のときは野球、中学高校は軟式テニス。あ、中学生のときは駅伝もやってたな。

すごいスポーツに没頭してて、でもそういう中でも実は、絵が描きたくて。実は、外でグランド走りながらも、美術室に憧れてた。

でも人には言えなかったから…。(笑)

— 確かに、学生時代は男の子だとスポーツができる子のほうが男女ともに人気がありますもんね。

そう、美術部の男の子とか、ひ弱なイメージというか、そんなイメージがみんなあったでしょ。

— 確かにそうですね。いま思うと不思議ですけど、私の学生時代も当時はそんな雰囲気だったような気がします。

本当は美術部で絵描けたらな〜とかずっと思ってたんだけど。言えなかったね。

— なるほど。高校卒業後はどうされたんですか?

大学は本当は美大に行きたかったんだけど、親に「絵じゃ食っていけないだろ!」って言われちゃって。昔の人ってそういう…ね。

じゃあもう理工学部で建築にしよう。って。建築だったらものづくりに近いからすこし面白そうだって思って建築学科に行ってみて。

それは面白かったんだよね。設計とかは。

忙しく辛い会社員生活の中での、陶芸とのであい


— お仕事も建築系に進まれたのですか?

大学の流れで就職はゼネコンに入って設計やってたんだけど、なんかやっぱりすごい忙しくなっちゃってさ、自分の時間が全然なくて。
32、3歳くらいのときだね。精神的にも肉体的にもだんだん辛くなっちゃって。


そのときに、なんかやっぱり自分の手で作るものがやりたい。って。
で、ちょっと時間があいたときに、近くの陶芸教室に通って、やっぱりこれっていいな。って思ったのね。でもなかなか時間がないからできてなくて。

でもこれはもうやるしかない!と思って、家に工房を作って電気窯も買って。

それで、そのときはもう設計が疲れちゃってたから、これでいきたい!陶芸に没頭したい!っていう気持ちが大きくなっていって。

その後、設計から部署移動できて、自分の時間がとれるようになったの。

昼間はもちろん会社で忙しく仕事をするけれど、夜に作品をつくりはじめたんだ。それで、半年後に初個展をやったね。 

 

はじまった二足のわらじ生活


— 半年でいきなり個展を?すごいですね。

そうそう、半年くらいは準備して、それで、そのときにいろんな人と出会えたんだよね。

文京区の白山あたりに、"sasulai"っていうお店があって。夫婦が働きながら週末店舗で骨董屋兼ギャラリーをやってたの。古い長屋で。

そこで店主さんたちと意気投合して、毎週時間があるとそこに行くようになって。そこに集まる人たちがおもしろい人たちばっかりで。

今でこそ、いろんな分野で活躍している人たちが、不思議と磁石に吸い付くように集ってきていて。 

そこでみんなに触発されて、じゃあ俺も個展やるよ!って言って始めたのがきっかけ。



— 素敵な関係ですね。では会社員と並行しつつ、はじめられたということですか。

で、そこからいろいろね、その繋がりで展示やらせてもらったり、松本クラフトフェアっていう日本最大で歴史あるクラフトフェアにたまたま出ることができて、そこでばーって広がったね。

— そのときに五月女さんの代表作、小さいおうちが有名になったのですか?

そうそう、最初から家を作ってたの。
全然自己流だから、今もそうだけど、自分の作りたい物しか作ってないから。家のオブジェを作りたいな!って思ったんだ。

だから松本とかでも、それから毎年10年くらい出させてもらってたんだけど、そこでだいぶ広がって全国のギャラリーとかショップが来て、「うちでやりませんか?」「扱いたいんですけど」って言ってもらえて。

そういうご縁から、全国でやらせてもらうようになって。

最初の頃、一緒に展示をやった大谷哲也さん(陶芸家)とかとも仲良くなったり…周りにすごく恵まれたんだよね。うなちゃん(SyuRo)とか、ちえちゃん(in-kyo)とかは、古い友人だね。

そこから蔵前で飲んだりして、村上さん(m+)とかと知り合ったり、それから毎週いくようになって。

— わたしが五月女さんと出会ったのも蔵前で飲んでいるときでしたね。(笑)
家族や友人に、「五月女さんとどういう繋がりなの?」って聞かれると、「いつも蔵前で飲んでいるけれど、蔵前で働いているわけでもないし、住んでるわけでもない。ものづくりをしているけれど、蔵前のものづくり界隈の人ではないんだよね」って答えていました。


そうそう、俺だけ部外者だったのよ。(笑)
でも本当に毎週のように行ってたね。会社帰りにね。

柳本くん(REN)とかにも、一緒に飲むようになってだいぶ経ってから、「ところで五月女さんってさ、どこで店やってんの?なに作ってんの?」って聞かれてさ、「え?俺は池袋の隣に住んでて、会社員しながら陶芸やってるんだよ」って言ったらびっくりされちゃったりさ。

ほら、みんな飲んでてもさ、仕事の話とかしなかったじゃん。それがいいんだけどさ。

 

2019年夏、長野県伊那谷への移住を決め、27年勤めた会社を退職。


— 今は作家活動一本ですが、会社をやめるぞ!っていうのは、長野移住のタイミングで決められたのですか?

そう。移住するって決めて去年(2019年)の8月いっぱいでやめた。

 

移住のタイミングを決めたのは、『直感』


— 移住のタイミングっていうのは、なにかきっかけだったりがあったんですか?

理由を聞かれるとちゃんと答えられないんだけど、「今だ!」って直感で思ったんだよね。

そりゃ先に伸ばすことは可能だったよ。とりあえず60歳、定年まで会社にいるっていう普通の選択肢もあったし。

でも、なんか今だなって思って。偶然ちょうど50歳のとき。

会社員時代は、精神的にも肉体的にもけっこうきつかったりもしてね。ものづくりをしてバランスをとっていた部分もあるんだよね。

今、これまで支えてくれた会社や家族には感謝の気持ちでいっぱいです。

それでも、自分に向き合って手放しを行って、こうして伊那谷にやってきました。

ゼロからスタートした移住生活


— 移住生活はどんな感じでスタートしたんですか?

いろんな意味でゼロからのスタートだったけど、それでも不思議と不安はなかった。みんな助けてくれるから。

前は、周りが助けてくれることに対しても、申し訳ないとか変な遠慮とか、自分がこうそういうのを自分から求めなかったりしたんだけど、今はもう「手伝って!」って。「あげようか?」っていわれたら「ちょーだい!」って言えるようになった。

— 土地柄、お互いさまっていうのもありそうですよね。

そうそう。結局なんか、何かをくれる人とか何かをしてくれる人もしたいからしてるから、向こうにとってもそれは喜びになるし、俺もしてもらったらすごく助かるし嬉しいから、お互いに良いっていう。

だからもう本当、それが変わったね。

今はもうできないことはできないっていうし、逆にやれることは「やるやる!」って言って手伝いにいったりとかするんだけど、
そうするとどんどんまた新しい出会いや繋がりができて…そういう意味では、すごく豊かな生活。

毎日おいしい物をいただいて食べているし、空気も水もおいしいし、なんといっても豊かな大自然が身近にある。

それが変わったかな。

— 創作に集中できるっていうのもありそうですね。

そうそう。集中もできるし、広いからああいう大きい絵も描ける。

だから作ってるものは、東京のときからー見そんな変化はないかもしれないけれど、でもね決定的にちがう。自分の中の作っているときの気持ちが違う。

やっぱり、不安定な状態で作っているものと穏やかな気持ちで楽しんで作っているものと、一見同じ物に見えても、作品に入っている周波数というか波みたいな…やどっているものが、絶対に違うわけ。

だからね、それを手に取った人たちに、よりいいものを届けることはできるようになったと思う。

それって一番大事だからね。

— さっき、会社員時代は辛いときに、ものづくりをすることでバランスをとっていたって仰っていたと思うのですが、逆に移住して満たされた今、それでも作り続ける理由や意味はあるのですか?もうやらなくても幸福なのでは?とはならないのでしょうか?

ならないですね。やっぱり作ってるのが好きだから。

あと、いろんなところで個展やったりするから、全国を旅できるのよ。それが楽しくて続けている部分が大きいね。

移住後にであった、穏やかで静かな喜び。


— やっぱり『ものづくりが好き』というのが基本なのですね。

絵とかは本当ね、こっちきてこれからどんどんやって行こうかなって。

東京は上がったり下がったりどーんどーんって、疲れちゃって。

ここでの生活は、静かな喜びっていうか。穏やかな心地良さがずっと継続している感じ。


今はすごい良い感じ。毎日が楽しくて。

こういう雨の日もすきだし、晴れても気持ちいいし。毎日がほんとうに新鮮に映る。

創作もその延長で、今作りたいなと思ったら作ったり、いま絵描きたいなと思ったら描いたり。

「花入れには花を入れなくてもいい。」


— 続いて、作品についての質問なのですが、五月女さんの作品は一輪挿し、花瓶っていう呼び名ではなく"花入れ"なのが特徴的だなと思ったのですが、この名前になにか理由やおもいみたいなものはあるんですか?

確かに。花瓶って言わないね。

ほんとういうと、なんでもいいんですよ。花入れじゃなくてもいいと思っていて。

— 使いみち・用途はなんでもいい!ということですか?

そうそう。例えばこれも、コップなんだけど、別にこれを食器としてコーヒーとか飲むっていうふうに既定したくなくて。

ものを入れても良いと思うし、まいちゃんが言ってたみたいにプリン入れてもいいと思うし、あんまり限定したくないって思うので。

花入れに関しても、「例えば、花を入れると結構いい感じですよ。似合いますよ。」っていう軽い感じで花入れって表現しているかもしれない。

— 確かに私の家にある五月女さんの花入れたちも、基本的には花を入れるようにしているのですが、なにも入れなくても佇まいと存在が格好いいので、そのままでも飾っています。

そう。花入れとして使わなくても、ほんとうにそのまま飾るだけでもさ。

目の前の見えるところ、オフィスとか家の書斎とかテーブルとか、おいてくださっている方もいるし。人それぞれ楽しんでいただければってね。

— じゃあ本当にもうご提案のひとつとして、花入れたらどうですか?っていうくらいのものなのですね。
確かに花瓶!一輪挿し!っていうと花を活けなきゃいけないような気持ちになりますもんね。


そうそう。俺、野草がすきなの。その辺に生えている雑草みたいな。

だからそういうのを入れる器が欲しいなって思って作ったんだよね。

忘れられない、コンクリートの割れ目から生える健気な雑草


— ほんとうにコンクリートの割れ目から生えているような情景っていうことですね。

そうそう。この四角い花入れを作ったきっかけなんだけど、すっごい覚えていて。

雑司ヶ谷の路地裏歩いてたらさ、ぴゅーって生えてたのよ。

植物って健気だから、土が少なければ土の量に合わせた体の大きさにしかならなくって。そこで生きていけるだけの体を作ってそれで生きていくんだけど。

うわぁ、すごいなぁって。これだ!って思って。この情景を切り取ろう!って思って、家に走って帰ったもん。(笑)

ですぐ四角い花入れを作った。10年前くらいかな。

— それも出会いですね。走って帰る五月女さんを想像すると、なんだか少年のようでかわいいです。
小さな四角い花入れの形は、その10年前から変わらずですか?


ある意味洗練はされてきていると思う。

だいたいこういう形でこういう開口が開くと良いなっていうのがあるから、最初の頃は半分くらいは使い物にならなくて失敗ばっかりだったんだけど、

10年作り続けてやっと、9割くらいは大丈夫になってきたかな。

— 五月女さんの作品の特徴である割れ目は一期一会ですもんね。ほんとうにコントロールできるものじゃなくて。

なんかさ、雑草とか道端や空き地で生えているような野草って、よく見るとものすごいきれいなの。

そういうものをちょっと摘んで、ぱっと生けるっていうのをね、日常の暮らしの中で多くの方々にやってもらえたらいいなと。

気づきやちょっとした喜びに繋がると思うので。

「20年後、30年後、ふと気付いたら、"こいつずっとここにいたなぁ"と思われるような、そういう存在でありたい。」


— なるほど。ご自身の作品をどんな方にどんな風に使って欲しいなどの理想みたいなものってありますか?

一言で言うと、ないです。

自由に。枠にとらわれない発想で使ってもらえればと思いますね。

20年後、30年後、ふと気付いたら、「こいつずっとここにいたなぁ」とか「あ、なんかいっつも使ってたな」とか。そういう存在でありたい。

だから、なんだろう、ショーケースに入れて大事に大事にして終わり!ではなく、普段使いで生活の一部として使って欲しいですね。

欠けちゃってもいいんですよ。もう欠けたような形してるし。(笑)

— たしかに(笑)
欠けてもあまり目立たないかもしれませんね(笑)


そう。目立たないから大丈夫。

— 暮らしの一部に馴染んで自然とそこにいるような?

そう。手に触って、育ててもらいたいですね。

どういうふうに使ってほしいとかはほんとうになくて、その人の使いたいように使ってくれたらなって。

「今をどういうふうに過ごすかって、たのしむだけ。」


— なるほど。最後に、五月女さんがこれから挑戦されたいことはありますか?今までのお話を伺っていると、考えてどうこうというよりもびびっと来てすぐに動くことのほうが多そうですが。

うーん、
将来こうなりたいとか、こんな作品で…とかは全然なくて。今を楽しんでいるだけなんです。

将来とか過去とかよりも、今この瞬間を生きて、その瞬間瞬間を積み重ねるなかで、ちゃんとそのタイミングでなにか循環が得られたり。

それをただやっていけば、自ずとベストな方向にいくっていうのが、最近やっとわかったね。この歳になって。

将来のことなんて、わかんないし、考えたってしかたない。過去は振り返ったって本当にそれこそどうしようもないし、意味がないことで。

今。今をどういうふうに過ごすかって、たのしむだけ。たのしいことをやるだけです。





五月女寛|Hiroshi Saotome

1969年 千葉県うまれ
2003年 陶芸と出会い、創作活動を開始
2019年 会社を退職し、長野県の伊那谷へ移住
     陶芸だけでなく墨象画や水彩画などの創作も。


編集後記

今回のインタビューで、作品やものづくりについてのお話だけでなく、ひとが豊かに生きるうえで大切なことを教えてもらったような気がします。

この日はあいにくの雨だったのですが、五月女さん自身が『我が家の御神木』と話す立派な金木犀の木が満開の花を咲かせて迎えてくれました。

五月女さんの工房兼ご自宅にははじめてお邪魔したのですが、そうとは思えないほど居心地のいい古民家。

「いつでもおいで」という五月女さんのやさしい言葉に甘えて、またすぐに遊びにいってしまいそうです。

( 取材・写真:norimai )





>> 五月女寛さんの作品はこちらからご覧いただけます。