【m+ 村上雄一郎さん】『仕組みを提案したい』元建築士のつくるレザー財布|つくり手インタビュー
元建築士である村上雄一郎さんの手掛けるレザーブランド、"m+(エムピウ)"。
従来のレザーアイテムとは一味ちがう、無駄のない使いやすい収納スペースとデザイン性の高い商品を多く生み出されています。
m+の代表でありながら、一級建築士の資格も持つという村上雄一郎さんにお話を伺いました。
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夢であった建築士になるも、のしかかる重すぎるプレッシャー
— 村上さんは元々建築士さんということですが、子供の頃から建築系の道に進もうとされていたのですか。
そうそう。高校生のときにインテリアとかやりたいなって思ってたんだよね。
インテリアの専門学校とかがあるんだけど、高校が早稲田大学付属のところだったから、せっかく大学に行けるルートに入っているし、建築学科にいこうかなって思って。
— 早稲田の建築に進まれたのですね。大学を卒業されてからはすぐに建築系のお仕事についたのですか?
そう。設計事務所の建築設計部に入って5年くらい勤めたんだけど、大変でね。
一応、一級建築士の免許もやめる前くらいに取ったんだけど。
— 一級建築士まで!すごい!大変でしたね。
大変だったよ。確か、2回くらい落ちたんだっけな。
でも建築の仕事って、仕事そのものがすごく大変だったの。
部長が設計するんだけど、僕はその図面を書いたりしていて。ちょっと変えると全部イチから変えないといけなくなるからさ、えらい大変で。
しょっちゅう徹夜してやってて、体も壊しそうになったり。
体力的にも大変だったんだけど、あとはあまり経験もないまま打ち合わせとかもしなくちゃで。
先方もいろいろと聞いてくるんだけど、僕はまだよく知らないわけよ。
だから「持ち帰らせてもらいます」みたいな風にかわしてたんだけど、
なんていうか…家を建てる責任って重すぎるじゃん?
— それは確かに。
一回試作するとかもできないのに、図面を書いてそのまま立ち上がっちゃって…。
それがその人にとっては人生一回の一番大きなお買い物だったりするわけじゃん。
それをこんな自分みたいなやったことないやつが考えていいのか、みたいに思って。
プレッシャーっていうのかな、気持ちが重い感じになっちゃったんだ。
— 考えてみればそうですよね。やさしくて責任感がつよい村上さんだからこそ、気持ちもきつくなってしまったんですね。
それでその頃たまたま趣味で手縫いでレザー財布とかを作ってみたわけよ。
そしたらその財布を見た、設計事務所のデザイナーの先輩とかに「なんかさ〜村上、こっちのほうがいいんじゃない?」みたいなことを言われて。
僕も「やっぱり?そうですよね」みたいな。(笑)
— おぉ、なるほど!
財布とかだと自分で一回試せるじゃん。
一回作ったら使ってみて、これ使いづらいなってなったら、もう一回直せるし。
なんていうか…自分で責任がとれる範囲だなって。
家だと責任取れないじゃない?
— 家だと、その後ちょっと手直しするってわけにいかないですもんね。
だから、ちゃんと完成してから、「はいどうぞ。〇〇円です。」って言って、「あ、買おう!」ってお客さんに買うか買わないかの選択肢があるほうが気が楽なんだよね。
— 確かに。家を建てるときって、完成がどうなるかわからない状態で買いますもんね。
そう。信頼して頼むわけじゃん?
その信頼を受けられる経験があればいいよ。でもその頃の僕はさ、全然建てたこともないし経験がなかったから。
よくみんなやるなぁって思ってた。(笑)
だから家に比べて財布って、気が楽なのもあるんだよね。
— 責任感が強いからこそ難しかったところでもあったんですね。その頃からお財布の形やデザインはオリジナルで作っていたのですか?
まあね。よくあるような二つ折りの財布とかだけど。めっちゃ簡単にね。
そんな感じで趣味的にやっていたんだけど、そのデザイナーの先輩に褒められたから、いい目で言ってくれたんだろうなって勝手に思って、じゃあやってみようかなって思い始めたの。
修行のためにイタリアへ
— それからイタリアへ渡られたのですか?
そうそう。
その当時って日本で革の世界に入ろうと思うとまずは弟子入りみたいなものかなって思ったの。のり塗り3年とか、そういう世界かなって。
でもその時はもう大学でて働いて5年とか経ってるから、結構年いっちゃってるじゃない。
今から下積み3年、5年とかやってどうすんねん!みたいな。
— 確かに何年か修行して…って考えるとなかなか厳しいかもしれませんね。
それで、当時設計事務所の先輩が建築の勉強をしにベネチアの建築大学に行ってたんだけど、その人が事務所を辞めて独立したの。
僕はその人に結構相談したりしていたんだけど、その先輩が「じゃあちょっとイタリアに行って箔つけて帰ってくれば、なんとなく横やり的に業界に入れるんじゃない?」って。
「まあ…そうですね」みたいに思って。
それで調べてみたら、トスカーナ州がやってる学費が無料の専門学校を見つけて。
でもアジア人枠は年に2人だけだったの。
そこに行って受付してみたんだけど、30人くらいの名前が書いてあって。
「あ、これダメかもな」って思った。
— 30人中2人だけって、なかなかシビアですね。
そうしたら、開校がどんどん遅れて、結果的に半年くらい遅れたの。まあ、イタリアだからね。ぜんっぜん始まらないのよ。(笑)
で、それを待っている間にみんなどんどん他のプライベートスクールとかに流れちゃって。
特に日本人って几帳面だからさ。スケジュールとかもあるだろうしね。
結果的に、開校のタイミングで残ってたのは2人しかいなかったっていう。(笑)
— それはすごい…!(笑) その開校を待っている間の半年間はイタリアにずっといたということですか?
そうそう。その頃は革のカバン屋さんに「ちょっと教えてください」みたいにお願いして教えてもらったりとかはしてたんだけど。
— なるほど。そういえば当時イタリア語は話せたのですか?
一応、日本の語学学校で文法は全部やった。
ちゃんとは喋れないんだけど、技術的なことは単語がわかればわかるからさ。
チャックがなにとか、この角が〜とか、そういうのはわかるから一応その辺の話はできるんだよね。
逆にあの、ランチ中のくだらない話とかはわかんなかったけど。
— 雑談は逆に難しいですよね。でも業務上の意思疎通はできたということですね。
そう。業務上つかう言葉はわかるって感じだった。
だから学校が始まってからも、授業はなんとなくわかったね。
— 学校は何年くらい通われたんですか?
本当は一年制の学校だったんだけど、開校が半年遅れたから半年くらいになっちゃったの。
— えー!そんなことあるんですか(笑)
そう。それでもやっちゃって、どうにかお尻を合わせちゃうっていうのがイタリアらしいよね。(笑)
逆に手っ取り早くてよかったけどね。
— 学校卒業後はすぐに帰国されたんですか?
ううん、しばらくイタリアで働いたんだよ。
学校にいたジュリアーナっていう女性の先生がフリーランスだったんだけど、その先生に型紙の勉強をしたいって言ったら、「じゃあ私が働いているところがあるからそこの社長に言ってみる」って言ってくれて、受け入れてもらったの。
僕はクラスでも優等生だったからね、割と。(笑)
それでとってくれたのが、ベネトンの子会社だったの。そこで1年くらい働かせてもらったんだよね。
しかも後ろの席がジュリアーナだったから、わからないことがあればなんでも聞けるわけよ。すごい勉強になったし、これは本当にラッキーだった。
— 確かに、先生が後ろの席にいる状態で仕事をするってなかなかない環境ですよね。
そう。めっちゃ教えてもらいながらお金ももらえてたっていうね。
その後まあまあ著名な工房から引き抜きの話があって、日本に残してきた家族もイタリアに呼べる!ってウキウキしてたんだけど、
カミさんに「ばか言ってないでさっさと帰ってらっしゃい」って言われちゃって。
それであっけなく帰国したんだけど、その直後にその引っ張ってくれた人の仲間達がみんな解雇になっちゃって。ちょうどいいタイミングで帰ってよかったなあと。
だからイタリアにいたのは2年くらい。30歳前に帰国したかな。
— 奥さまナイス判断でしたね!(笑) …というか、イタリアに行くときにはもうご結婚されてたんですね?
もうしてたよ。子供もいたしね。ちょっとアクロバットだよね。(笑)
— すごい!確かにアクロバットですね!(笑) 奥さまの反対とかはなかったんですか?
うん、建築事務所にいる頃がちょっと大変だったからね。体壊すんじゃないかってレベルだったから。
最初の半年は僕ひとりでイタリアに行って、落ち着いてから一回呼んで…って行ったり来たりしながら応援してくれたの。
帰国後、全国のおばあちゃんに大ヒット
— ご家族の理解もありながらイタリアで箔をつけて日本に帰国されたんですね。
そう。でも日本で何も実績がなかったから、一旦先輩の設計事務所に戻って、その傍ら外注デザイナーとしてランドセル屋さんとか家具屋さんの革部門とかで革に関わって…。
実績を積みながら、同時進行で自分の財布も別に考えて。その頃からエムピウっていう名前でやり始めたの。
でも売れないわけさ。
その頃に台東区がやってるデザイナーズビレッジに入った。
— デザイン関連の起業を目指すクリエイターやデザイナーのための台東区の支援施設ですよね。確か村上さんは一期生なんでしたっけ?
そうそう。
その頃に松屋の催事でたまたま買ってくれた消費生活アドバイザーっていう女性がいて、その方がエムピウの財布(ミッレフォッリエ)を買ってくれて。
面白いからちょっと新聞のコラムに載っけてもいいかって聞かれたの。
それで載っけてもらったら、それからめちゃくちゃ売れて。
— おぉ!新聞効果ですか。すごい!
そう。朝日新聞の土曜日版。
そこからすごい注文が入って、卸先からも問い合わせが来るようになって。急に忙しくなったんだよね。
そのコラムを書いてくれた人のファンが結構お年を召した女性の方が多くって、全国のおばあちゃん達から問い合わせが殺到したの。
— 全国のおばあちゃんですか!でも当時ってまだお店はなかったですよね?
そう。だから新聞に電話番号しか書いていなかったこともあって、デザビレの電話がパンク状態。
ほら、当時はインターネットとかもそんなにみんな使ってないし。
だから全部電話で、「買いたいんだけど、どうしたらいい?」みたいな。(笑)
— それは大変…!
新聞にも、黄色いカラーしか載っていなかったんだけど、「他に赤とベージュがあるんですけど」って説明したり、
住所とかも全部電話で聞いてメモをして…。
留守電に入れられちゃうと困るから、なるべく電話をとりたいと思って、トイレにいくときは受話器外したままトイレに走って…みたいな。
ありがたいことに、それが結構ながいこと続いたんだよね。
— 新聞の影響力ってすごいですね。
すごいよ。
電話が繋がらなかったからって、そのコラムを切り抜いてとっておいて何ヶ月か経ってから電話してくれた人も結構いたくらい。
— じゃあ最初は本当にたまたま買ってくださった方に気に入ってもらえたところから!
そうね。
だからそのコラムを書いてくれた方にお礼をしたいなって思ったんだけど、そういうのをやると記事の信用性がなくなるから受け取れないって言われて。
でも感謝してる。
— ひとりの方から全国のおばあちゃん達に広まっていったのですね。
それから営業とかはしていないんだけど、卸先の連絡もだんだん増えていった。
— ひとつのご縁から一気に広がっていったのがすごいですね。
そう。今思い返すと、いろいろこれがなかったら今結構やばかったかも、みたいなことがいっぱいあったよね〜。
ありがたいね。
—すてきなご縁でしたね。でも絶対にプロダクトの力と村上さんの人柄的に、早かれ遅かれ誰かが発掘していたとも思いますけどね。
そうだといいけどね。(笑)
まだ他のお店がなかった頃の蔵前に拠点を
— それから蔵前にお店を構えることにしたんですか?
そう、デザビレには3年しかいられなかったから。
まあこの辺が便利だったんだよね。材料屋さんが近いし、革屋さんもまあまあ近いから、この辺の方がいいかなって思って。
— 当時の蔵前って今みたいにお店とかはあまり無かったですよね?
そうそう。でもデザビレにいたときもお客さんがいっぱい来るわけでもなかったし、
僕としては店舗っていうより事務所って考えていたから、ここの一階を借りたの。
そのあとにカキモリとかシエロイリオとかが蔵前にお店を出して、人が来るなって感じになってきたときに
ちょうどここの二階も空いたから、上も借りてそっちを事務所にして、下はちょっとお店っぽくしてみようかなって思って。
そのあとMAITOとかKONCENTもやってきて、だんだん蔵前が確立されて盛り上がってきたんだよね。
— めちゃくちゃ先読みしていましたね!
こんなことになると思って蔵前に借りたわけじゃないんだけど、そういう意味では棚ぼた的だったよね。
「お客さんの手も加わって完成する」エムピウの作品
— 今更なのですがブランド名の由来を伺ってもいいでしょうか?
"エム"は村上のMで、"ピウ"はイタリア語で+(プラス)って意味なんだよね。
厳密にいうとイタリア語でMは「エンメ」なんだけど、エンメピウって言いづらいなと思ってエムピウにした。
でも「ピウ」も日本人に馴染みがなくて、「エムピュー」って言われちゃうけどね。(笑)
— 確かに口頭だとエムピューに聞こえなくもないです。(笑)
"村上さんとプラス誰か" という意味でしょうか。
そう。その誰かっていうのは、職人さんだったり、
エムピウの商品ってエイジングを楽しんでもらうものだから、お客さんの手も加わって完成するっていう意味もね。
僕と職人さんだったり、僕とお客さんだったり。そういう意味を込めた。
「仕組みを考えて、提案したい」
— すてきですね。
続いて、エムピウのアイテムについて伺っていきたいのですが、sui.でご紹介しているストラッチョをはじめ、村上さんの作品は構造が特徴的で、建築家さんならではの視点で作られているのかなと思うのですが、やはりそういうデザインや仕組みは意識されているのでしょうか。
うん。仕組みを考えて、提案したいんだよね。
「こうやっても使えるよ」っていうのを提案したいから、あまり普通のを作っていないんだよね。
— やはり既存のもので存在しない仕組みを考えるっていうのがすごいですよね。
うん、だからなかなか新しいものが出てこないけどね。(笑)
— わたしはストラッチョをめちゃくちゃ愛用していて、この世から現金がなくならない限りはずっとこれしか使わないだろうなって本気で思うくらいに気に入っています!
でも、現金なくなりそうね。(笑)
僕がやっている間はあってほしいけどね。(笑)
綿密な計算の末に生み出される、使いやすさ
— ストラッチョの開発経緯や秘話などを伺えますか?
ストラッチョはね、他のカバンで使っているシープレザーがいっぱい余るから、その端切れを使える商品を作りたかったの。
それで一生懸命考えたんだけど、やってみたらシープレザーって、滑りが悪くてお札が入れづらいのね。
じゃあ滑りやすいように裏を加工しよう!ってやると、結構高くなっちゃって。
これ違う革でやったら良さそうだなって思って、ゴートレザーでやり始めた。
それで、これはいい!ってなったから、結局シープレザーを使う件は横にそれちゃったんだけどね。(笑)
端切れって意味の名前をつけて、極限までシンプルに。
意外とこれで成り立っちゃうなって思って気に入った。
— この極限ともいえるシンプルさミニマルさがうつくしいですよね。
カードを入れるところなんかを、カードよりちょっと広くしてるんだよね。
そういうところが味噌かな〜って思って。
ここ、本当は小さくしたいって思うと、もっと際まで攻めたくなるんだよね。
でもそれだと使い勝手悪いだろうなって思って、ちょっとだけ広げているの。
— そうやって細やかに使うときの動作が考えられていることの積み重ねで、ここまでの使いやすさが実現しているのですね。
そうなのよ。意外に大変なのよ。(笑)
折れ曲がるところの微妙な角度や大きさも、何回もちょっとずらして調整したりとか。
— エムピウさんのお財布って、見た目だけでなくて使い勝手が抜群にいいんですよね。ストラッチョのようなサイズ感のいわゆるミニ財布って、お札は折って入れなきゃいけないものが多いイメージです。
そう。折って入れるの、嫌なの。
何回かそういうのも作ってみたんだけど、めっちゃ使いづらいんだよね。
出し入れの度に折ったり広げたり、面倒くさくて。
「道具っぽいものを作りたい」
— エムピウとして、なにか譲れないことやこだわりみたいなものってありますか?やはり先ほどおっしゃっていた、"仕組みを提案したい"っていうところですかね。
うん。一番はそこだよね。もう既にあるものは自分が作る意味がないから、新しいものを提案したいね。
あとは、エイジング。使い込むごとに味がでてくるみたいな素材で作りたいっていうのはあるかな。
— 村上さんの物づくりって、芸術っていうよりも数学に近いような気がしました。建築的というか工学的というか。
そうだと思う。道具っぽいものを作りたいのよ。
例えば、トンカチだと、ここが長いほうが遠心力で力が加わりやすいとか、石で叩くよりこの形のほうが叩きやすいとか。
ノコギリも、刃がこうなっているから、木を切るときに繊維を切りやすいとか…。
そういうのを考えたいんだよね。
— 仕組みが考えられていて、合理的で便利で使いやすい…確かに道具の設計ですね。やはりもともと建築士さんっていうのが土台にありそうですね。素質というか。
そうだね。やっぱりそもそもそういうのが好きなんだよね。
建築は規模が大きすぎたっていう。僕はプレッシャーとかに弱いからさ。
心臓に毛が生えていないとね、建築家とかやれないよ。
だって弁償できないじゃん、失敗しても。
…まあ失敗しないんでしょうけど。(笑)
いろんな業者さんとかも関わるから、監督みたいなマネジメント力も必要になってくる。
本当に設計が得意でも、そっちもできないと建築士の仕事はできないんだよね。
— 確かに。設計だけがお仕事ではないですもんね。そういう意味では今の道が村上さんにとってバランスが良かったのでしょうね。
— 綿密な設計のうえで作られているから、使う導線がきれいで無駄がない…とってもシンプルなようで考え尽くされていて…本当にストラッチョが好きです。
たぶん道具として仕組みを提案しているだけだから、シンプルなんだよね。
— ロゴが外側など目立つところに大きく入っていないところも気に入っています。
恥ずかしがり屋だからね(笑)
ちょっと恥ずかしいなと思って。それに、使うひとからしたら要らないじゃん。
— どこまでも使い手の立場から考えて作られているのがさすがです。
そうね。ありがと(笑)
過去の自分を超えるものを
— それでは最後に、今後やりたいことや新たに挑戦したいことはありますか?
今までに出した財布に勝つ物を出したいなって。
今あるカタチって、ひとつの解決策くらいなやつだから、もう一個くらい解決策があると思うんだよね。
— 10年以上ずっと売れ続けている超ロングヒットなのに、まだ新しいものを考えられているのですね。向上心?好奇心?がすごい…!これからも楽しみにしています。
そうね。
過去の自分は全然経験もないのにさ、悔しいんだよ。相当経験踏んでるはずなのに、敵わないの。
だから今までのを超えるやつをね、死ぬまでに出したい。
村上雄一郎|Yuichiro Murakami
1969年 岩手県生まれ・千葉県育ち
建築学部を卒業後、建築士として勤務。その後イタリアへ渡り革職人としての修行を経て、2001年 m+(エムピウ)をスタート。
編集後記
実は数年前からの知人でお酒の席では何度もご一緒したことのある村上さん。
今回改めてこのような機会をいただいたことで、村上さんの穏やかさや人の良さ、チャーミングなお人柄や勤勉な性格は昔から変わらないものなのだなと改めて感じることができました。
そんな村上さんが生み出す、細部まで考え尽くされた新しい仕組みの道具たちを、これからも大切に大切に使っていきたいと思います。
△ 村上さんの事務所にお邪魔すると、必ず出してくださるとびきりおいしいエスプレッソ。
(思わず一口飲んでしまった後の写真で失礼)
取材・写真:norimai / 一部写真:山田将史
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