【吉田正和さん】数々の縁から生まれた“うつくし器”|つくり手インタビュー
ソフトウェアエンジニアから陶芸家へと転身した吉田正和さん。
技術の世界から手仕事の世界へと進んだ背景には、数々の縁がありました。
ものづくりへの情熱を持ち続ける吉田さんが、どのような思いで作品を生み出しているのでしょうか。
その歩みとともに、お話を伺いに行きました。
>> 吉田正和さんの作品はこちらからご覧いただけます。
小さい頃から旺盛だった“ものづくり”への興味
— まず、吉田さんが陶芸家になるまでの経緯を教えてください。小さい頃からものづくりに対する興味はあったんですか?
世代的にプラモデルやガンダムが流行った世代なので、300円出せばプラモデルを買いに行けて、自分で作れるっていう楽しさがあったんです。
小学校の前半ぐらいですよね。
そこからちょっと成長したら、今度はラジコンを自分で作ってみたくなったりとかっていうので。
ものを作るってことはとても好きでした。
— 小さい頃から、細かいものをたくさん作ったりしていたんですね。
そうですね、結構熱中してしまうタイプで。ご飯やで!って呼ばれても、まだ作ってたりするみたいな。(笑)
— その頃は将来何になりたいと思っていました?
そんなに考えてなかったんですが、中学生を過ぎたぐらいからパソコンが友達の家にあったんです。
ファミコンが出だして、パソコンが出てっていう時代になって、そういったものがすごく新鮮に目に飛び込んできたんです。
友達の家のパソコンでゲームをするとかいうところから次第に興味を持ち出して。
でも、その頃の興味はものづくりとは全然関係なく、単なる好奇心で。
— デジタルな分野に興味が広がったんですね。
そう、そこから更にパソコンは自分でプログラミングができるっていうのを知って、親にパソコンを買ってもらったんです。
プログラミングに興味を持ち出したのが、中学から高校生の時ぐらいですね。
それで、大学もそういった分野を勉強したいなと思って、経営情報学科に進みました。
— そして就職活動を経て、一旦はソフトウェアのエンジニアとして就職されると。
はい、エンジニアってプログラミングはもちろん、設計も大事なんです。お客様の要望を聞き、基本設計から詳細設計、プログラミングといった“ものづくり”の流れを学びながら仕事をしていました。
京都という地が結ぶ、陶芸との縁
— 分野こそ違えど、当時も同じ“ものづくり”の現場にいたわけですね。ただそこから一転して2004年に会社を辞め、京都伝統工芸専門学校に入学されます。そのきっかけはどういうものだったのでしょうか?
残業も多くて大変な仕事ではあったんですけど仕事は充実してました。ただものづくりっていう自分の立ち位置を考えたときに、いつまでもプログラマーでいられないなと思い始めたんです。
いずれキャリアアップで人の管理とかをする立場になると想像した時に、やっぱりものを作りたいなっていう気持ちが強くなって。
それで京都に生まれ育ったということもあって、伝統工芸に興味を持ち始めたんです。
で、早速陶芸を学べる学校を探して入学手続きをしてっていう。
— 京都生まれ、ということが吉田さんと陶芸を結ぶきっかけだったんですね。
そうなんです。小さい頃からまあまあ身近に陶芸はありました。
同じ中学校の学区内に清水焼団地という陶芸家が集まっている団地があったり、友達のおじいちゃんが陶芸家やねんとか、そんな人もいましたし。
ただ当時は陶芸の世界に飛び込むとは夢にも思っていなかったですけど。(笑)
— 専門学校での学びは如何でしたか?
まあ、器を作るのって難しいなっていう。(笑)
全然経験もなくて、趣味でもなかったことをいきなりやろうっていうのは、ある種無謀ですよね。
でも、周りの学生は18歳から60歳超えた方までいて、いろんな世代の人と一緒に学ぶことができました。
朝日焼との運命の出会い
— ここで2年間学ばれたのち、宇治の茶陶である朝日焼に従事されることになるんですが、どのような経緯があったのでしょうか?
専門学校の1年生の終わり頃に、学校の掲示板で朝日焼のワークショップの案内を見つけたんです。2週間ぐらい窯元に通って、湯飲みや茶碗を作るのを教えてもらって。
あとこれの作り方を習ったり。(道具を取り出す)自分で削ってね。
— へぇ!これはなんていうアイテムですか?
柄がついているコテなので、エゴテって言います。こんなのを自分で削って作るんですよ。
首の細いうつわとか、手が届かない部分はこれを使って成型するんです。
また、朝日焼は宇治の土を使っているのがポイントなんですね。
自ら山に土を掘りに行って、窯元内で土を作って、それで作品を作っているという珍しい窯元です。
で、そこは今も登り窯があるんですけど、その窯に自分の作品を入れて窯焚きから窯出しまでをしてっていうのが一通り経験できるので、それも行きました。
2年生になってからも、窯元で窯焚きするという話を聞いたら、ちょっと学校休んででも薪割りに行ったりとかしてましたね。ただ当時はそういうご縁があった程度でした。
実際2年生になり就職活動をしてみると、小遣い程度の下働きみたいなお仕事が未だに残っているような業界だったので、生活していくのは厳しいなっていうお仕事が多くて。
結局諦めてサラリーマンになろうとコンピューター関連の企業を受けていたんです。
— そうだったんですか!
ええ。で、もう卒業っていう時期にふと1通のメールが来て。
朝日焼の陶芸教室に勤められてた女性の方が結婚で辞めることになり1つ枠が空いたので誰か紹介してくれる方いませんか?って。
で、私行きます!ってすぐ返事して。
— すごい!本当にギリギリでタイミングが合ったんですね。
私も朝日焼で働きたいって思いが以前からずっとあったのですごく嬉しかったですね。
— 朝日焼での経験は、吉田さんにとってどのようなものでしたか?
みんなすごくフレンドリーなんですよ。
朝日焼は、400年以上続いている窯元で、お茶の文化に根ざした器を作っています。
で、朝日焼という名前が焼き物の窯元でありながら、1件しかないんです。清水焼とか何十件とあるんですけど、朝日焼はここ1件。
で、それを代々継いでおられる家系の方がいらっしゃって、プラス従業員と職人がいる、という由緒ある窯元なんですけど。本当皆さん良い方ばかりなんです。
私は配属された陶芸教室の担当になったんですけど、ある日突然先生になるんですね。
その直前まで学生やったのに。今日から先生。
— すごいギャップですね。事前に研修とかもなく?
ないです。(笑)いきなり陶芸教室の見学に行って見様見真似で手伝うところから始まって。
最初は戸惑いながらも、仕事の後に時間をもらって自分で作る練習をしてみたり、
そういったことを重ねてなんとか先生として通用する技術を磨いていった感じです。
— 人に教えることから何かの自分にも得るものっていうのはありますか?
もう本当にいっぱいありますね。
人の想像力とか、こうしたいっていう思いを引き出すお手伝いを通して、自分では思いつかないことが、人の数だけやっぱり出てきますし。
で、何か要望があった時に、じゃあこんなやり方なんてどうですかって私の引き出しをちょっと出して手伝いをしていく。
— 1人でお作りになられるのとは違って、共に作り上げていくことで生まれるシナジーみたいなものが生まれそうな。
そうですね、陶芸やってよかった!と思って帰ってもらえるようにっていう心がけが常にありましたし。
私にとってはこの陶芸教室は楽しい時間だったので、やめる気もなくずっとそこにいるような感じでいましたね。
独立のきっかけは、芦屋にあった一つの住宅
— 10年超と長い間朝日焼で従事されるのですが、2019年に一大決心をされます。
はい。ただきっかけはシンプルなことで。
この旧宮塚町住宅という場所の入居者募集をされてることを知って、ふらっと見学に行ったんです。
実際建物を見て、ちょっと古いけど他と比べて異質で素敵な建物やなって思ったんですね。
ただ、その時は申し込もうとかいう感じでもなく。
けど、3か月後くらいかな、2階部分の募集が始まったんですよ。
その時にふと、自分でやってみようかなって思いが芽生えて。
ただ独立ってね、普通にこれからご飯食べていけるんかなって。やっぱり思いますよね。
毎日うつわ何個売れるねんっていうね、そろばん弾いたらなかなかしんどいなとは思うことなので。
それでもやってみようと思えたのはこの場所やったからなんですよね。
— 吉田さんの思いを大きく後押ししてくれるくらいに、この場所には言葉で言い表せない運命的なご縁があったんでしょうね。
はい。そう決めたらもう一気に行くんで早かったですね。
— 専門学校に行かれるときもそうでしたが、思い立ったらすぐ行動タイプですね。(笑)その行動力が数々の良い縁を引き寄せてらっしゃるんだなと思います。そしていよいよyoshida potteryを立ち上げられるわけなんですが。独立されてからの作品作りは、どのように進められていきましたか?
最初は、自分がいざ何を作ろうかって思った時に何もなくて。
何が好き?って自分に問いかけても、うーん、いろんなもん好きやなとか。
陶芸教室で色々ものを見すぎたので、良くも悪くも。
色々な作り方、いろんな産地の焼き物の技法を真似たりとかね、取り入れたりとかっていうのをやってきたせいで、 なんでもありなんですよね。
それが逆に何しようっていうのを妨げたところがあって。(笑)
— いろいろな引き出しがあるが故に、生まれてしまった悩みだったんですね。
で、アトリエの環境が整い出してから、ろくろの前に座ってまず土をどうしようってなったんですよ。
ふとその時、自分が陶芸の学校に行っていた時に使ってた土に返ってみようかなと。あの土好きやったなっていうので。
で、色は最初はシンプルに白と黒の2色でやろうと。
なぜかというと、形がダイレクトに人に伝わりやすいっていう印象があったんですね。
証明写真とか履歴書にある証明写真って白黒だったりしたじゃないですか、あれって白黒の自分の写真を見た時の方が、なんかこう、輪郭とかはっきり見えて綺麗に見えた印象があったんですよ。
で、土を据えてみて、もう感じるままに作ってみました。先にスケッチを描いたりとか、設計したわけじゃなくて。
で、1番最初にできたのがこのボウルだったんです。
— とてもシンプル!そして柔らかい印象を受けるやさしいうつわですね。こちらが一番最初だったんですね。
はい。これをまずは白と黒との2色で。
そのあと、コーヒードリッパーの上下のセットとか、そういったものも作り出したんですけど、やりだしてすぐ2020年になってコロナで世の中がガラッと変わってしまって。
クラフトフェアに出ようとか、自分の発表の場を作っていこうと思っていた事が軒並みなくなってしまって。
独立後すぐにコロナ禍…どん底からのスタート
さあどうしようとなったんですが、いや、ネットでの展開ならできるなと。
しかもコンピューターに絡むことっていうのはそんなに苦じゃないんで。
— そうですよね、キャリアとしてご経験がある。
はい。陶芸の業界って昔から作家と販売店の間に問屋さんが入ってるのが大体なんですけど、きっとこの構図って崩れるなってのを感じてたんですね。
それって結構チャンスやなと。で、このコロナ禍がまさにそのタイミングだと思ったんです。
で、自分自身でインスタとかで発信して有名になられた陶芸家さんとか見てて、ここまで近づいていきたいなとかいう目標にして、そういうのを意識しながらSNSでの発信やウェブサイトの立ち上げをやり出しましたね。
— 実際始めてみて変わっていきましたか?
そうですね。本当にいい時に始めたというか。私の場合独立してすぐコロナ禍というどん底からのスタートだったので。
これ以上落ちないって、上がっていくしかないっていうので、気持ちは上向きでした。いいタイミングやったなと本当に思いましたね。
で、作品の方も白黒以外の色も考え出すようになって。
白黒はほとんど釉薬が流れないタイプなのでおとなしい雰囲気なんですよね。
けど焼き物ってちょっと釉薬が流れたりとか、個体差が出て選ぶ楽しみがあるっていうのも魅力なのでそういった色味も欲しいなと思って。
大体2020年の5月頃ぐらいですかね、さびいろのシリーズを作ったんです。
— なるほど。現在当店でもお取扱いしているコーヒーカップのシリーズもその頃から作りはじめていたんですか?
コーヒーカップはまだその時はなかったですね。
元々白黒で作っていた形、梅鉢とかリンカとか雪輪の色違いでさびいろを当てはめてみたりとか、 そういったところからですね。
コーヒーカップのシリーズは、お取引ができたオーナーさんからのご要望に対して、じゃあこんなんどうですかってサンプルで何種類か用意して、
そんな中でもっと量は何ccくらいがいいとか、そういう修正を重ねて育っていったものですね。
— 仕上がった作品を通して、以前従事されていた朝日焼から受け継いできているなと感じる点はございますか?
朝日焼って歴史がある窯元なので、お茶席なんかに行くとたまにふと出合うことがあるんですね。うつわをひっくり返すと「朝日」っていう感じで印が押してあって確認できるんですけど。
ただ、普通にお茶どうぞって出されたお茶碗の雰囲気だけで「あれ、これ朝日焼ちゃうかな?」って感じることがあるんですよ。
これってすごいことやなと。
そういったところに、やっぱり魅力をすごい感じて。
私も過敏な装飾をしているわけじゃないけど、うつわを見た時にyoshidaのもんやっていう風に思わせたいなと。そういう思いで作っている点ですね。
見た目の“美しさ”、そして機能性の“用の美”を兼ね揃えたうつわを届けたい
— 長年培われてきた美意識が吉田さんのものづくりにも受け継がれているわけですね。
確かに、yoshida potteryのコンセプトである『うつくし器 -utsukushiki-』にも通じるものがありますね。
それは結構ありますね。
うつわの口造(くちづくり:縁の部分)って、ここの印象こそがうつわの印象をほぼ決めると私は思っているんですね。これは朝日焼にも言えるんですけど。
うつわって人間の目線では斜め下に見ることが多く、口につけて使うものも多いじゃないですか。
なので、ここの見た目の綺麗さと、口あたり。
そして薄すぎず、分厚すぎない、手に触れて熱を感じられる丁度いい厚み。
あと手に持った印象が見た目よりもちょっと軽いな、と思わせるくらいの重み。
そして、この音。(うつわ同士を軽く当ててカランという少し籠った美しい音が鳴る)
こういった総合的な美しさと伝わり方っていうのを常に意識しています。
— コーヒーカップをアイスの飲み物で氷を入れた時とか、すごく美しい音が鳴りますよね!私も普段使っていてこの音に癒やされています。人間の五感を通して、心地よさや美しさを感じるうつわだなと感じますね。
そうですか、そういったものを私のうつわから感じていただけたら嬉しいってのはすごくありますね。
— 最後になりますが、吉田さんはご自身のうつわをどんな風に使っていただきたいと思ってらっしゃいますか?
ターゲットを日常の食器にしている時点で、もう本当に毎日そこらへんにあってほしい。(笑)
ただ、毎日の食卓に毎日同じうつわであって欲しくはないんですよね。
例えば今日のこの料理はどのお皿使おうかな?っていう、そんな悩みとかを持ってほしくて。
うつわの色どうしようかな?とか、ちょっと高いのに盛り付けようかな?とかっていう遊びを持って欲しいんですけど、その中の1つに、yoshidaのうつわがあってほしいなっていう。
あと使い勝手も電子レンジが使えたりとか。食洗器がいけるとかっていうのは必要かなと思っているんで。
— そのあたりの機能性も、日常的に使っていただきたいっていう思いをベースにされているんですね。
そうですね。すっごい攻めて脚部分をもっと細く細くして、折れそうなやつとかに挑戦することもできるんですけど、毎回使うのが怖いわっていうのは違うなと思って。
まあまあ普通にざっくりスポンジで洗ったらいいわとかいうレベルでありながらも、
なんかこう置いてた時にちょっとそこにあるだけで嬉しい、みたいな。
そんな存在であってほしいなと思いますね。
吉田正和|Masakazu Yoshida (Yoshida Pottery)
1973年 京都府生まれ
1997年 ソフトウェアエンジニアとしてネットワークプログラミング等に携わる
2004年 京都伝統工芸専門学校(現大学校)入学。陶芸の基礎を学ぶ
2006年 京都・宇治の茶陶 朝日焼に従事
2019年 独立し、兵庫・芦屋にてyoshida potteryを立ち上げる
編集後記
吉田さんが独立するきっかけとなった芦屋のアトリエ、「旧芦屋市営宮塚町住宅」。
緑の小さなアーチを潜った先には、
石積みの外壁ながらも温かく気品のある雰囲気をまとった古いアパート、
その前には家庭菜園、と穏やかな空間が広がっています。
何度か訪れているのですが、いつも一歩足を踏み入れると、
何だかここだけ時代を巻き戻したような、そして時間が止まっているような、
そんな不思議な感覚になります。
吉田さんがこの場所に何か運命的な縁を感じられるのも納得できる気がします。
こちらの旧宮塚町住宅には吉田さんのアトリエの他にも様々な工房やショップが入居されていて
“ものづくり”のエネルギーも感じられる素敵な空間でした。
吉田さんのアトリエでは不定期でstudio open dayもされております。
是非機会があれば旧宮塚町住宅にお越しいただき、
作品と合わせてこの場所の不思議な魅力も感じていただけたら幸いです。